Thousand Cranes 千羽鶴 1969

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Thousand Cranes 千羽鶴 1969

監督: 増村保造
出演: 平幹二朗, 若尾文子, 梓英子, 京マチ子

この映画は市川雷蔵で予定されていたが、ガンで亡くなったため、平幹二朗に変更されている。三谷菊治の役は、僕には誰が演じてもそれほど変わらないと思う。やっぱり三谷菊治を囲む女性陣が重要である。
原作読んでいるので、この映画の中にやや物足りなさを感じてしまう。それは、特に太田夫人の配役である。川端康成のイメージした太田夫人は、若尾文子だっただろうか。彼女のしなだれるような話し方では僕にはピンとこないのである。太田夫人は男を誘っているのではない、男が自然と誘われてしまう魅力を持っているのだ。自分一人では生きていけない頼りなさを持ちながら、妖艶で純粋に愛に生きる人じゃないといけない。そこが若尾文子にはない。僕には、当時なら八千草薫とか、もう少し清純でありながら妖艶さを出せる天然な人がいいんだが。すぐには思い浮かばない。今の女優でいうとどうだろうか? 

京マチ子は、栗本ちか子のイメージのままである。南美川洋子も確かに稲村ゆき子で良さそうだ。梓英子が文子だろうか。やっぱり思い入れのある太田夫人、文子のイメージにはぴったり来ないのである。

千羽鶴は、僕には非常に思入れのある川端作品である。それでもこの映画は十分に見応えがあった。三谷菊治が鎌倉円覚寺の境内で、千羽鶴の風呂敷包みを抱えた令嬢に出会うシーンもイメージ通りで美しいシーンである。娘の文子が母の形見の志野茶碗を打ち砕くシーンもいい。
千羽鶴の風呂敷包み、胸のあざ、口紅跡がついたような志野茶碗、茶室など非常に日本的なものが折り込み込まれて、そして心の中に深く刻まれるものである。

そして栗本ちか子の胸のあざ、これはちか子の心の中を表すように変わらずいつもあるものの象徴でもあるだろう。その醜さは、美し出で立ちに隠され、お茶の先生になり伝統の中に隠されている。
娘の文子が母の形見の志野茶碗を打ち砕くのは、彼女が三谷菊治を愛し、母に嫉妬を感じたからであり、そしてまた自分の中に母の血を感じたためでもあるだろう。また母と私は三谷菊治のそばにいるべきでないという心の叫びがそうさせたのだろう。文子と母との違いはその心持の強さにあるだろう。
そして菊治が父の唐津の茶碗を割る。菊治は文子を抱いたことで、父や母、そして太田夫人のことを話すられると話す。そして太田夫人の志野茶碗と同じように父の唐津の茶碗を割ることで、新しい自分の出発を決心した。 原作には、父の唐津の茶碗を割るところは描かれていない。菊治はもっと受身的な役割になっている。この映画では菊治にもっと気持ちを表現させたかったのではなかっただろうか。

その心の複雑さが現れ、美しいものを破壊する行為に集約される何か儚さの象徴でもあるだろう。

川端康成は、私の小説『千羽鶴』は、日本の茶の心と形の美しさを書いたと読まれるのは誤りで、今の世間に俗悪となつた茶、それに疑ひと警めを向けた、むしろ否定の作品なのです。と言っている。
川端康成は、ただ俗悪となった茶の社会を強く表現するのしているとは思えず、茶器の中に確固たる人間のような存在感を表現していたと思う。
今でも千羽鶴は、美しさと醜さそして儚さが交錯した非常に妖艶で美しい作品であると思う。

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