砂の器 1974

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砂の器砂の器 1974

監督: 野村芳太郎
原作: 松本清張
出演: 丹波哲郎, 加藤剛, 森田健作, 島田陽子

これはかなり前にテレビで見た映画である。
ただテレビを見た時は、犯人がピアニストであり作曲家であり、芸術を表現する絶頂にありながら捕まってしまうドラマ性が強く印象に残っているだけである。
本浦千代吉のハンセン病についてあまり印象に残っていなかった。今回2度目に見た今回の映画では、なぜ和賀が三木を殺したかを考えながら見た。

三木巡査は善意の人であり、本浦親子に出会い、親切で秀夫の父本浦千代吉を病院に送った。そして本浦本人を養子にまでしようとした。
しかし何故、そんな善意にあふれた人を和賀(本浦秀夫)が殺したかだが。ここは映画では語られていない。この理由がわかるために、本浦秀夫の生きた道をただるしかないのである。
彼の作曲した宿命を聴きながら、彼の生い立ちを振り返ることが必要である。

本浦千代吉は病院に送られて本浦秀夫と離れ離れになってしまった。千代吉の健康状態を考えればそれがいいんだが。
三木はいいことをしたんだが、子供の秀夫にとってはかけがえのない父を彼から奪ったのである。別れて暮らさなくては行けなくなった。秀夫は天涯孤独になってしまった。
彼の額にある傷は誰がつけたか。別の村の巡査である。彼にとって、国家権力の象徴である警察は、いつも彼に対して迫害を加えてきたのである。
本浦親子の旅は、回想シーンからも痛々しいほどわかる。彼が高木理恵子に子供を産ませなかった理由も考えなくてはいけない。彼の母は、彼を父と共に捨てたのである。
当時ハンセン病は遺伝する病気と考えられていた。だから彼も捨てたのである。
本浦秀夫もいずれハンセン病を発病するのではないか、いつか自分の子供もハンセン病になるのではないかと恐れていたのである。子供を持つと彼の忌まわしい宿命がついて回るのである。

作曲家として成功した和賀(本浦秀夫)を訪ねた三木は、執拗に父に会うように説得した。それは彼にとって今まで築き上げてきた城、生活(砂の器)を崩そうとする憎い敵なのである。
三木は和賀(本浦秀夫)が自分の生い立ちを隠して必死に生きてきた気持ちをわかってやれなかったのである。
彼の父が、ハンセン病を患っている父であることが世間にわかれば、彼の生い立ち、戸籍の秘密がバレてしまうわけである。彼にとってはそれは許しがたいものである。
そして子供の頃に受けた仕打ちを思い出したのである。いつも三木は、自分の幸せを奪っていくと彼が思っても仕方がないのだ。
彼が三木を殺す動機は十分にあるのだ。それでも計画性はなかったのだろう。

三木は日本人大衆の良心の象徴である、しかしそれは、本浦親子にとっては憎むべき敵であったのである。
つまり日本全体がハンセン病を患ったの家族に迫害を加えてきたわけである。和賀が幸せを求めるためには、三木を殺さなくてはいけなくなったのである。それは悲しい宿命であったのである。

彼はそれを音楽で表現していたのである。そして自分の中に内在する宿命を。つまり虐げられた子供時代でも父と暮らした楽しかった日々を。

三木はおそらくらい療養所に入った父の千代吉から責められていた。息子の秀夫に会わせてくれと。彼とわかれて秀夫が行方不明になったのは三木のせいだと責めていたのである。
三木は秀夫が行方不明になったことも責任があると感じていたのだろう。だから和賀に強く父に会えと言ったのだが。しかし彼はやっぱりハンセン病を理解していなかった。
父の千代吉に秀夫が成功していることを伝えれば、きっと千代吉はそれで満足して2度と会いたいとは言わなかったと思う。


この小説は、今西警部補の粘り強い捜査と、罪を憎んで人を憎まずの態度が素晴らしいのである。方言とかめだが、東北ではなく島根県の亀嵩というところにたどり着くところが面白いである。
それにしても列車から白い紙吹雪を投げた女性から、それが殺人の証拠の可能性があると考えた吉村巡査も面白い。
最終的に、今西がどれだけ犯人和賀の気持ちを殺人の動機に迫っていたかがわかる映画である。

若い渥美清が出てくるのが懐かしい。丹波哲郎それにしてもの演技が本当にいい。それとやっぱりテーマ音楽の宿命が本浦親子の旅を素晴らしく描いていた。本当に映画と音楽がマッチしていた。
小説を読んでいないので砂の器のタイトル意味は想像でしかない。
本浦秀夫が子供の頃に求めたのは、作曲家になり成功していく人生(砂の城)ではなく、本当になにげない日常生活でお茶碗でゆっくりとご飯を食べたい普通の生活だったのである。彼はそれに憧れて、砂の器何個も作ったのだろう。



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