雪国 川端康成 1937

  • 投稿日:
  • 更新日:
  • by
  • カテゴリ:

雪国雪国 (小説)川端康成 1937

国境の長いトンネルをつけると雪国であった。有名な言葉で始まる小説であるが、子供の頃はかなりもてはやされた小説である。
小学生の頃まず映画で見たのだが、ストーリーが理解できなかった。なぜこの雪国がこれほど評価が高い作品なのか全くわからないでいた。伊豆の踊り子もあまり好きでなかったのだが。どうしてだろう。後で、掌の小説などの川端康成の作品が好きになっても、この雪国はどうしても読んで見たいとは思わなかった。今回再度印象の悪かった映画の雪国を見て小説も読んで見ようと思った。

雪国の主な舞台は、上越国境の清水トンネルを抜けた湯沢温泉である。
小さな温泉町にきて山から降りてきて芸者遊びをしようと考えていた島村は、そこでまだ芸者にはなっていない若い女が現れ、女と島村はお互いに惹かれいく。そして葉子と言う声が綺麗でひとみが魅力的な女性が現れる。

まず、これは小学生ではこの男女の関係を理解することができないとわかった。芸者遊びは今でいうデリヘルみたいなものか。それに島村という男が無為徒食(働いていない)が、お金持ちである設定も小学生には理解しづらい。

川端康成には、文章は美しいのだが、たいてはそこにエロティシズムもある。
最初に、"島村は退屈まぎれに左手の人差し指をいろいろに動かして眺めては、結局この指だけが、これから会いに行く女をなまなましく覚えている。"なんとすけべな表現なのだろう。この左の人差し指の感触と堂々とかけるところがすごい。
と同時に汽車に乗っていた女性に関心が向く。この辺りが男心なのであろう。こんなことが、当時小学生だった私に分かるはずがない。

二人の女性の描き方が、なにか現実とも幻ともつかないところが、川端らしい描き方だと思う。

どちらも現実の直視だけでなく、鏡からみた美しい姿を描いている。これが本当に現実なのか、幻なのかわからなくしているのである。

葉子は、冒頭汽車の中で、駒子を思い出している時に突然、窓ガラスに映り出した。娘の眼と火が重なった瞬間、彼女の眼は夕闇の波間に浮かぶ、怪しく美しい夜光虫であった。そして悲しいほど美しい声の持ち主でもあった。
葉子は、駒子に気がちがうと言われる女性であるが、この小説の最後にも突然、娘は火と重なって現れる。

駒子の美しさもまた鏡の中で表現される。鏡の奥が真白に光っているのは、雪である。その雪の中に女の真っ赤な頬が浮かんでいる。なんともいえぬ清潔な美しさであった。

葉子も駒子も以下の表現のように、鏡に映った現実の世界を島村は未定内容に思え、そしてだから異様に美し見えたのだろう。現実の世界に戻るということは別れを意味しているのかもしれない。

二人は果てしなく遠くへ行くものの姿のように思われたほどだった。
それゆえ島村は悲しみを見ているというつらさはなくて、夢のからくりを眺めているような思いだった。不思議な鏡のなかのことだったからでもあろう。その二つが溶け合いながらこの世ならぬ象徴の世界を描いていた。

駒子と島村とのやりとりも、これは小学生、中学生には理解できないだろう。今ならできるというなら、人生の経験を積んできたからだろう。

君はいい子だね。どうして?どこがいいの。
いい子だよ。
君はいい女だね。どういいの。いい女だよ。
くやしい、ああっ、くやしい。
このやり取りはなかなか理解できないんだが、いい女だよと言われるのが駒子は嫌いなのだろう、都合の良い女と言われているように思えるのだろう。ただ駒子がそう感じてしまうのは、以前にそんな経験があるからなのだろう。
あんた笑ってるわね。私を笑ってるわね。と続くのである。
これは女性から、男がいい人ねと言われることと同じかもしれない。悪い気はしないが、それだけでそれ以上深い関係にはならないということを意味しているのと同じようなものかも。

島村の"徒労だね。"という口癖があるのだが、これを言わしている島村は妙に都会で汚れた存在に思われる。そして徒労だと言われながら生きている駒子や葉子が非常に美しく思われるのである。

最後に駒子との逢瀬はそろそろ終わりにしようと思う島村がいるのだが。

駒子の髷は緩んで、喉は伸びている。そこらにつと手をやりそうになって、島村は指先がふるえた。島村の手も温まっていたが、駒子の手はもっと熱かった。なぜか島村は別離が迫っているように感じた。
どうしてこの表現で別離が迫っていると感じられるのだろうか? 駒子に対してすこし離れた感情を持ち、彼女に触ることができなくなっている自分を感じたからだろうか。


最後に、
再び、葉子が繭倉の建物から仰向けで落ちた所に、木が葉子の顔の上で燃え出した。
これは、最初に見た光景のデジャブである。そして最初に出会った葉子に対する印象がこの予兆だったように描かれているのである。そしてこれが最初と最後を結ぶ訳であるのだが。
一瞬に駒子との年月が照らし出されたようだった。なにかせつない苦痛と悲哀もここにあった。

その火の子は、天の河の中に広がり散って、島村はまた天の河に掬い上げられてゆくようだった。煙が天の河を流れるのと逆に天の河がさあっと流れ下りて来た。
島村はやはりなぜか死は感じなかつたが、葉子の内生命が変形する、その移り目のやうなものを感じた

この子、気がちがうわ。気がちがうわ。そう言う声が物狂わしい駒子に島村は近づこうとして、葉子を駒子から抱き取ろうとする男達に押されてよろめいた。踏みこたえて目を上げた途端、さあと音を立てて天の河がしまむらのなかへ流れ落ちるようであった。

ついに別れの時がきたのだろう。駒子の住んでいる世界と自分の世界はちがう。天の河が、島村の中に流れ落ち今まで見ていた夢、幻が消えてしまったのだろう。


小説を読んだ最後の感想。


葉子と行男の関係はどうだったのだろうか?これは小説でも映画でも語られていない。また駒子と葉子の関係もよくわからなかったのだが。

駒子と行男は港町で幼馴染であった、しかし東京で病気になった行男を、駒子は看病することができず、看病するために葉子を東京に送ったのだろう。その東京で葉子は行男を好きになり、親身に看病したのであろう。
だから駒子には葉子に遠慮があるし、葉子も駒子に遠慮があるのだろう。
そして気がちがうわ、気がちがうわと駒子が葉子のことを言うのだが、葉子は普通の人とはちがう思いつめた行いをするのだろう。それが行男に対しても、最後の火事の現場でもそうだったのだろう。

駒子のような恵まれない境遇にいる女性は現代ではいないのだろう。子供の頃に売られ、東京に行ったが、旦那が早く死んだので、返された。引き取った先の息子が病気になって、治療費のために芸者になる。そして息子が死に、師匠が死んでも、残された自分の家族のために年季奉公をするようになった。
そこに島村は、駒子の憧れであり、純粋に好きな男だったのだろう。島村にとっては、東京に妻や家族がいて、温泉場に駒子に会いに遊びに来ているだけである。島村は駒子の純粋さ、そして駒子の生活を見ながら、そろそろ別れなくては、もっと駒子を惨めにしてしまう気がしたのだろう。
また考え直せば、これ以上駒子に深入りすることができない自分を感じたからとも言えるのではないだろうか。


ただ、なぜこれが日本文学の代表作なんだだろうと思う気持ちは今も変わらない。この小説は、川端流の幻想的なエロスと温泉宿、芸者の郷愁があるんだが、それだけのような気がしてならない。


川端康成の言葉に、私の作品のうちでこの「雪国」は多くの愛読者を持つた方だが、日本の国の外で日本人に読まれた時に懐郷の情を一入(ひとしお)そそるらしいといふことを戦争中に知つた。これは私の自覚を深めた。と書かれている。なるほど戦時中には軍隊で外国に行ったものにはすごく人気があった作品なんだとは納得できる。

My Rating(評価): 14/20
アクセス数:71