本覚坊遺文 井上靖 1981

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本覚坊遺文本覚坊遺文(ほんかくぼういぶん) 井上靖

三國連太郎主演の映画、利休を見て、僕が思っていた利休とは何か違う。どこかで読んだ小説とは何かが違うと思っていた。そこでどの小説を読んだか覚えがないんで調べたが、おそらく井上靖の本覚坊遺文だと思った。
井上靖の小説は好きでかなりかなり読んだ。その中で、この小説も読んでいたような気がするだが? もう一度確認ために読んでみた。

だが、読み終わっても僕が読んだ利休とは少し違う気がする。
利休の死の謎、意味が、利休の弟子三井寺の本覚坊の手記の形で語られる。そして利休の謎に1章ごとに人物を変えて、利休像を描きながら、利休が目指した茶の世界、秀吉との関係、利休の弟子たちの関係などが絵が描かれていく。

自分は、東陽坊、岡野江雪斎、岡野江雪斎、織田有楽、宗旦などが登場し、この人物ならこう言うだろうと思う井上靖の思いが語られている。そして最後に本覚坊の結論なるものがあると思う。
ただ彼らの言葉は、それぞれに重なりがあり、それがまとめられて本覚坊の言葉になっているところもある。

千利休
大永2年(1522年) - 天正19年2月28日(1591年4月21日)
1月22日 豊臣秀長死去
1月24日に徳川家康公と一亭一客の茶。
2月13日に堺へ
2月28日 切腹

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1章 慶長2年 (利休死後6年)
本覚坊は、真如堂の紅葉を見に行った折に東陽坊に声をかけられる。
そして師利休の思い出話になり、どうして利休が死を賜ったか、そして言い訳せずに切腹をしたかを東陽坊なりに意見を言うが、本覚坊はすこし違う思いがあった。特に、本覚坊は師利休が淀川から堺に戻る船の中ですでに師利休は死を覚悟していた。

本覚坊は夢の中で、師利休が歩く道の後を追うのであるが。
その道は
冷え枯れた磧の道が一本続いておりました。余人の誰もが踏み込めようとは思われぬ、一木、一草とてない、長い長い小石の道でございます。
魂の冷え上がる淋しい道がどこまでも続いているのであろうかと思いました。昼とも夜ともさだかならぬ、幽かな明るさが漂っております。

利休のお茶
自由な、緩急自在とでも申しますか、大きくおおらかなお点前
所詮茶というものは、火と水のかかわり合いだ。
茶の湯の果ては枯れかじけて寒い境地にある。

東陽坊意見として、
古渓和尚の死によって一つの時代は終わった。お二人でそれぞれ片方の端を握っておられた一つの時代は終わった!
乱世の茶も終わった。(茶室に入って茶を頂き、茶室を出ると戦場に向かう。そして戦場では合戦の中に身を投じて、討死して相果てる。そういう時代は終わった)
利休どのの茶は豪かったな。茶人として命を張っていた。茶人と名のつく者はたくさん居るが、千宗易に並ぶ者はなかった。それだけに烈しかった、烈しかったから、生命を全うすることはできなかった。

茶道具を高価に売りさばいて私利をほしいままにした。これはない。
讒言によって御不幸を招いたという噂。それもあるだろう。
大徳寺の山門事件、こんなことは利休殿のお考えでない。

利休からもらった茶の極意とは、
侘数寄常住、茶之湯肝要

東陽坊とあった後の本覚坊の思い出
天正16年9月にあった古渓和尚の送別会について
吉の預かり物の虚堂の書を使い、長い時間、師利休が深く考えていた。

秀吉に対して反感を持っていたのは確かである。秀吉の預かり物の虚堂の書を使ったのも。この時は古渓が讒言により九州に流罪になったことからも。おそらくは原因は石田三成によるものだろう。

本覚坊
聚楽第のお屋敷に於いてのそれは、太閤さまの御権力へお挑みになったものであり、堺へ下る船の中のお顔やお姿は、それに対する太閤さまの仕返しを、面を上げてお受けになっているそれであるという。そんな気がしてなりません。

利休と秀吉との齟齬はこのころからあったのである。


2章 慶長8年2月23日 利休の死から13年

岡野江雪斎が本覚坊の居を尋ねる。
山上宗二の茶の奥義書、山上宗二記を携えてきた。

山上宗二についての岡野江雪斎の言葉 異相とでも言うか、暗く険しい顔を持っておられ、気性も激しく、なべて妥協ということを知らぬ性格だったので、太閤さまに対して不首尾なこともあって、ために浪々の身となり、そのために小田原に来られるようになったのではないかと思う。

攻める方も、攻められる方も、武将たちは茶の湯に励んでいた。攻める方は利休どのが取り仕切られ、攻められる方も、武将たちは茶の湯に励んでいた。攻める方は利休どのが取り仕切られ、攻められる方は宗二どのが取り仕切っておられる。あの時期に於ては、宗二さまの取り仕切る茶の湯のほうが真剣だったことでありましょう。

本覚坊の思い出
山崎の妙喜庵の囲
無と書いた軸を掛けても、何もなくなりません。死と書いた軸の場合は、何もかもなくなる。無ではなくならん。死ではなくなる。
誰がいたか、師利休、山上宗二、そしてこの章では明らかになっていたが、古田織部である。
どれが無と書いたか? 大徳寺系の禅僧のどなたか。
死と書いたのは兄弟子宗二自身だろう。

山上宗二記
十五より三十までは万事を師に任せるなり。三十より四十までは我が分別を出す。四十より五十までの十年の間は、師と西を東と違えてするなり。そのうちに我が流を出して、上手の名を取るなり。茶湯をわかするなり。また、五十より六十までの十年の間は、師のごとく一器の水、一器に移すようにするなり。名人の所作をよろず手本にするなり。七十にして宗易の今の茶の湯の風体、名人のほかは無用なり。
最後に
最後の拙子上洛仕り候か、死去仕り候あとは、執心に申す御弟子にお伝えあるべきものなり。

本覚坊と岡野江雪斎の話し合いの中
枯れかじけて寒けれ、
紹鷗どのが、茶の湯の果てもかくありたきと言った。

利休の死の原因についてまた述べられる。
太閤様の恩寵に甘えて、目に余る振舞があった
堺衆茶匠たちから降ろされた
家康公と一亭一客のお茶事
半島出兵に対する慎重派の武将と親しかった。
利休の娘の秀吉への妾話
大徳寺の山門事件、
茶道具の売買


本覚坊の思い
師利休は枯れかじけて寒いという中には淋しさはないと言う。
長い一本の道を歩きになっている
妙喜庵の囲の不思議な夜について。

3章 慶長15年2月13日

古田織部と本覚坊の話
利休の形見、茶杓二本 なみだといのちについて。
早船の逸話(蒲生氏郷と細川忠興(三斎))

織部は
なぜ利休が死を賜ったの理由は知らない。
ただ一つ知りたいことがある。一番大切なことを知りたい。
堺にお移りになってからの十何日、利休どのはどのような心境にあったか。その最後の気持ちが知りたい。利休どのは何をお考えになっておられたか。なぜ申開きしなかったか。

本覚坊の思い
師利休の最後の気持ちは、私にはよく判っております。どうして判らずにおられましょう。師利休は最後まで師利休でいらっしゃったと思います。

織部と利休のやりとり
数寄の極意は、
奈良の松屋に徐熙(じょき)の鷺の絵がある。その鷺の絵を会得するなら、天下の数寄というものを合点するであろう。まず鷺の絵を見てみることである。
実に二十年ぶりでその鷺絵を見た。絵もいいが、問題は表具である。一文字なしの中風帯。思わず唸りたいような気持ちになった。利休どのはこの侘表装のことを言っておられたのかと思った。唐絵をこのような着物を着させて活かした珠光どのもさすがであるが、それをちゃんと見ておられた利休どのも豪いと思う。確かに侘数寄の眼目は、こういうところにあるに違いないと思った。


侘数寄常住、茶之湯肝要が話題に上がる。

織部の自問自答、師利休がどう考えていたのか
茶は自分一代でいい、こう思いだったのか。
自分の茶は亡びるのがいい、
自分の茶はもうこれ以上生きて行けぬことを、お見透しだったか
本覚坊の答え
師利休は、後自分を偽られるようなことは、なさらなかったのではないでしょうか。、後自分に覚悟を強いたりするようことは、一切なさらなかった。申開きなさるより、なさらない方が、師利休には自然だったのではないでしょうか。
御無念、そういう気持ちはお持ちになっていなかったと思います。銘をおつけになる時のようにさらりとして、これでいい、そう思いになって、自刃の場にお坐りになったのではないでしょうか。


4章 元和3年

織田有楽と古田織部の死の原因について話し合う
織部殿は死ぬ時を探しておられた。
師利休と同じように死ねる機会をもてた。
織部が師千利休に殉じた。

山上宗二も腹を切り、利休どのも腹を切り、織部どのも腹を切った

本覚坊が気づく
妙喜庵のあの夜に、死の掛け軸、無の掛け軸があり
その議論していたのは、最後の人は古田織部だった。

死の軸の中にお入りになった。死の約束が取り交わされたに違いない
無では無くならん、死ではなくなる。

織田有楽さまは、盟約に加わることができなかった。だからわしは腹は切らん、切らんでも茶人だよ。

建仁寺の子院・正伝院(現在の正伝永源院)院内に茶室・如庵を設けた。利休どのの聚楽屋敷の席とは違う。
たとえ好きでも、利休どのは坐れなかった。太閤さまのお側から離れるわけにはゆかなかった。その点は、厄介だった。ああなると、遊びではなくなる。
茶室は、狭いのは狭いのでいいが、この茶室はのんびりとあそべるところにした。狭いと、とかく真剣勝負になる。真剣勝負になると、勝ち負けになる。利休どののようになる。死を賜りかねない。

死を賜った理由
太閤さまは利休どのの茶室に入るたびに、死を賜っていたようなものだ。太刀は獲り上げられ、茶を飲まされ、茶碗に感心させられる。まあ、その度に殺されている。死を賜っている、太閤さまだって一生のうち一度ぐらいは、そうした相手に死を賜らせたくもなるだろう。そうではないか。

お詫びしなかった理由
利休どのはたくさんの武人の死に立ち会っている。どのくらいの武人が、利休どの点てる茶を飲んで、それから合戦に向かったことか。そして討ち死にしたことか。あれだけたくさんの非業の死に立ち会っていたら、義理にも畳の上では死ねぬだろう。

だが、利休どのは豪かった。天下の茶人多しと雖も、誰一人、肩を並べる者はない。自分一人の道を歩いた。自分一人の茶を点てた。遊びの茶を、遊びでないものにした。と言って禅の道場にしたわけではない。腹を切る場所にした。

古田織部が生前言っていたことがここでつながるのである。
ただ一つ知りたいことがある。一番大切なことを知りたい。が、その大切なことが判っていない。どうして申し開きなさらなかったのであるか。


5章 元和5年 利休亡き後28年

利休の孫、宗旦が本覚坊を尋ねる。
太閤の茶会の数々を描く。太閤と利休の関係を描いている。
天正12年10月10日 大阪城お座敷で催された口切の茶会
その五日後の茶の湯
天正15年1月3日の新年の茶会
天正15年の北野の茶会

もう一つは宗旦からの
師利休はどのような理由で死を賜ったかの質問。

生前師の利休は
全く死など予感なさっていらっしゃらなかったと思います。天正18年の秋は澄んで爽やかで、暮れから19年の正月、そして潤正月にかけては、寒さは厳しゅうございましたが、これまた静かに晴れた冬の日々が続きました。そうした中で、この約半歳の間、師利休は朝、昼、晩と1日3回の茶悔をお勤めになっており、全部で100回近い茶悔をおひらきになっているのではないかと思います。この時期ほど、師が茶の湯に真剣に打込まれたことはございません。茶人というものは茶さえ点てていればいい、全身でそのようにお言いになっているかのようにお見受けしました。

家康公をお迎えした24日朝の茶会を境にして、聚楽の利休屋敷は急にひっそりしたものになっています。
その後太閤さまの後不興の報せが伝わり、それによって事情は一変してしまいました。

朝鮮出兵の問題に関して、師利休がお気に召さないことを口走り、それがお耳に入ったということでありましょうか。それがいかに些細なことでも、太閤さまはお許しになさらぬでしょう。何かそうしたことで、師利休は自分でも気付かぬような小さい過失を犯しておられたのではないかと思われてなりません。


終章 元和7年

織田有楽(うらく)の死去
お別れの挨拶に行こうとしたが、悪寒があり、途中で引き返す。
そして師利休のお供をして歩いた、夢の中の道を歩いていた。
冷え枯れた磧の道が一本続いている。

織田有楽と師の利休について話したことを思い出す。

夢 30年前の師利休の御自刃の場の夢をみる。
師利休が切腹の前に最後のお茶を点てる。
その前に座っているのは、太閤である。
太閤に
上さまからはたくさんのものを頂いてまいりました。茶人として今の地位も、力も、侘数寄への大きい後援助も。そして最後に死を賜りました。これが一番大きい頂きものでございました。死を賜ったお陰で、宗易は侘茶というものがいかなるものであるか、初めて判ったような気がしております。堺への追放のお達しを受けた時から、急に身も心も自由になりました。永年、侘数寄、侘数寄と言ってまいりましたが、やはりてらいや身振りがございました。宗易は生涯を通じて、そのことに悩んでいたように思います。が、突然死というものが自分にやって来た時、それに真っ向から立ち向かった時、もうそこには何のてらいも、身振りもございませんでした。侘びというものは、何と申しますか、死の骨のようなものになりました。

妙喜庵の茶室は茶人宗易のお城でございます。一兵一卒もありませんが、宗易一人が籠って、世俗と戦うお城でございました。

御命令で境に移りましてから、ずっと死が見えております。茶の湯は、己が死の固めの式になりました。茶を点てても、茶を飲んでも、心は静かでございます。死が客になったり、亭主になったりしてくれております。

宗易の最後の茶を見るために、大勢の方々がお控えになっております。
一亭一客の太閤さまとの茶会が終わり、その後あと御跡見の茶会に
今まで利休が点てたお茶を飲まれた人々が全て集まりになった。
四、五十人の方々が小さい茶室に収まってしまったようである。そして最後に山上宗二さまが一人で躙口から体をお抜きになろうとしている。

最後
あの冷え枯れた淋しい道の上に、師利休をまん中にして、山上宗二さまと古田織部さまが、前と背後を歩いていらっしゃる。
宗二さまも、織部さまも、死を賜った時、師利休と同じように、茶人として、初めてなものかをお持ちになり、そこで静かに茶をたてになって、そこから抜け出すことはお考えにならなくなったのかも知れない。


最後に自分の感想

無と書いた軸を掛けても、何もなくなりません。死と書いた軸の場合は、何もかもなくなる。無ではなくならん。死ではなくなる。まるで何ものかに挑むような烈しい口調だった。茶室からはそれだけ聞こえて、そのあとはまた何も聞こえなかった。
というエピソードは本当だろうか、井上靖の創作だろうと思う。茶人三人が切腹した。そこに戦国時代の茶の奥義があるのかもしれない。これは確かである。

死を賜ることで 侘数寄の奥義がわかったのだろう。当然、利休や宗二はこれから戦に出て行き死んでいく人たちのために茶を点てていた。彼らの潔さ、覚悟の確かさを見ながら茶を点てていけば、自分が死を覚悟して茶を飲む、茶を点てなければ、その頂点に立てないのである。

利休の言葉に、宗易は侘茶というものがいかなるものであるか、初めて判ったような気がしております。堺への追放のお達しを受けた時から、急に身も心も自由になりました。永年、侘数寄、侘数寄と言ってまいりましたが、やはりてらいや身振りがございました。宗易は生涯を通じて、そのことに悩んでいたように思います。が、突然死というものが自分にやって来た時、それに真っ向から立ち向かった時、もうそこには何のてらいも、身振りもございませんでした。侘びというものは、何と申しますか、死の骨のようなものになりました。
己が死の固めの式になりました。茶を点てても、茶を飲んでも、心は静かでございます。死が客になったり、亭主になったりしてくれております。

これは、やっぱり井上靖の創作だろうが、言いえて妙である。特に死が客になったり、亭主になったりしてくれております。
素晴らしい言葉である。すごく哲学的でもある。第七の封印の騎士と死神のように死を語らい合うのである。

それにしても、無の軸と死の軸、このエピソードは難解である。
無とは、無の境地なんだろうか。これは仏教的であり、禅の教えである。当然茶道は禅宗の延長にあるんだろうが、自分の死を冷静に受け止めなければ、悟りは開けないのかもしれない。
そう考えてもまだまだわからない。

利休の解釈としてまた特に素晴らしいのが織田有楽の利休についての言葉である。武士からの立場で秀吉を語り、そして茶人としての立場で利休を語る。
ー利休どのは大勢の武人の死に立ち合っている。どのくらいの武人が、利休どのの点てる茶を飲んで、それから合戦に向かい、そして討死したことか。あれだけたくさんの武士の死に立ち合えば、義理にも畳の上では死ねぬのであろう。
この場合も有楽さまは何でもないことのようにおっしゃった。そんなことは判り切ったことではないか。そうしたお顔である。しかし、そのあと、
ーだが、利休どのは豪かった。天下に茶人多しと雖も、誰一人、肩を並べる者はない。自分ひとりの道を歩いた。自分ひとりの茶を点てた。遊びの茶を、遊びでないものにした。と言って、禅の道場にしたわけではない。腹を切る場所にした。

などあっさり利休のことを節の立場で言ってしまうところが、さすが井上靖である。

山上宗二記は、後世に伝わった茶の本として、宗二が命が短いと思い書き記した本として、本当に価値がある本である。
元は千利休の言葉とされる一期一会とは、茶道に由来する日本のことわざ・四字熟語。茶会に臨む際には、その機会は二度と繰り返されることのない、一生に一度の出会いであるということを心得て、亭主・客ともに互いに誠意を尽くす心構えを意味する。
弟子の山上宗二は著書『山上宗二記』の中の「茶湯者覚悟十躰」に、利休の言葉として「路地ヘ入ルヨリ出ヅルマデ、一期ニ一度ノ会ノヤウニ、亭主ヲ敬ヒ畏(かしこまる)ベシ」という一文を残している。
一期一会が利休の言葉だったのだ。これは新しい発見であるような、納得いくような、

古田織部に師利休が申し開きしなかった理由を探し求めさせ、さして最後に織部も切腹を言われ申し開きしなかった。師利休に殉じたのだろうか?
僕には、織部の悪なき探求心、師の求めた侘数寄の境地に至りたかったのであろう。それでこそ利休の弟子である。
このような古田織部に師利休が申し開きしなかった理由を探し求めさせたところが、井上靖の古田織部に対する素晴らしい理解である。本当に納得してしまう。


僕なりのなぜ利休が死をたまわったのか、そしてなぜ利休が許しを請わなかったのかを考える。

秀吉と利休の齟齬について

古渓和尚の送別会(古渓の流罪)
秀吉に対して反感を持っていたのは確かである。秀吉の預かり物の虚堂の書を使ったのも。この時は古渓が讒言により九州に流罪になったことからも。おそらくは原因は石田三成によるものだろう。
山上宗二の打ち首
利休を介して秀吉との面会が叶い、秀吉が再登用しようとしたが、仕えていた北条幻庵に義理立てしたため秀吉の怒りを買い、耳と鼻を削がれた上で打ち首にされた。

こうした事柄などは利休が秀吉の行いに対して冷め始めた発端だったのだろう。

聚楽屋敷での徳川家康との一亭一客のお茶事
これは秀吉に利休に対する態度を決定させたものだろう。だがなぜだろう。よく考えてみると利休の一番の支持者で秀吉の関係をとりなしてた秀長が、このお茶会の二日前に亡くなっている。
当然、徳川家康とのお茶会には、この話題が出ないはずがない。そして秀長を亡くして、利休が家康に言葉を滑らした可能性がある。朝鮮出兵を憂慮したり、秀長公が非常に素晴らしかったなどと。
おそらく、秀吉は家康と会い利休との茶会を期待かもしれない。そして家康は利休が素晴らしいと褒めた、褒めただけでなく秀吉が嫉妬するような、そして徳川と豊臣の主従関係を覆すようなたいそうなもてなしをしたように言ったかもしれない。そして朝鮮出兵は利休も憂慮しているなどと言ったののかもしれない。それは自然と出たかもしれないが、家康はわざとそうしたかも知れない。家康には過去にも同じような企みを使って成功している。それは安土桃山で、信長が明智光秀に家康をもてなし役をまかして、信長の怒りを買いひどく明智光秀を叱責した。これが後の本能寺の変のきっかけだっとすることもあるくらいである。家康はついに秀長が死に、利休がいなくなれば、石田三成たちの政権を握り外様大名の反感を買うようになるのを見越していたとも思える。
徳川家康からの言葉は秀吉に届いていなかったかも知れないが、重しとなった秀長がいなくなり、石田三成にとっては目の上のたんこぶだった讒言もあり、さて秀吉は怒りまくった。それに今まで茶道の師匠として敬ってきたが、利休の今までの態度が気に食わなかったのか、少し懲らしめてみようと思ったのだろう。利休に蟄居を命じたが、きっと利休から弁明や陳謝の文が来ると思っていた。あげてしまった刀は簡単には下ろせない。それなのに利休は謝らない。そして切腹となった。

それまで言われている理由は付け足しのような気がする。
茶道具を高額で売り私服を肥やした。秀吉が利休の娘を妾に臨んだが、利休が拒否したこと。大徳寺三門事件これらは、みんな石田三成らが考えた讒言であろう。

そして利休は今までの秀吉との齟齬を考える。弟子の宗二も潔く死んだ。よき理解者であった秀長もいない。これからは石田三成たちが権力をつかむ。悪い時代がやってくると思っただろう。秀吉亡き後にも生きる道がないだろう。今秀吉に命じられて死を賜るのが一番良いと思ってもふしぎはないのではないだろうか。静かに死んでいくのがいいと思っても不思議がない。

そして僕が読んだ本には、確かに信長と秀吉の芸術性の理解の違い。信長の方が優れていて、秀吉が芸術を理解する素質がないため、利休の心が離れて死を賜るに至ったという解釈だったが、この本を読んでそんなことはないだろう。利休は秀吉に仕えて、権力を得て、光り輝いたのである。秀吉の芸術の理解がないのは百も承知。それがあっても秀吉を感服させる茶道を行うことができた名人なのである。


登場人物の覚書


東陽坊 東陽坊長盛
京都建仁寺の茶室
安土・桃山時代の天台宗の僧・茶人。京都真如堂東陽坊住職。号は宗珍。茶は千利休に学ぶ。薄茶の先達といわれる。長次郎作黒楽茶碗「東陽坊」などを所持したことで知られる。北野大茶会で建てた茶室「東陽坊」は建仁寺方丈裏庭に移築された。

蒲庵古渓
安土桃山時代の臨済宗の僧。俗姓は朝倉氏。越前国の出身。大慈応照禅師。古渓宗陳(こけいそうちん)とも。越前国の戦国大名である朝倉氏の出身で、一族の重鎮だった朝倉宗滴の一周忌に際してその死を悼んでいることから、廃嫡され仏門に入ったと伝わる宗滴の実子が蒲庵古渓ではないかとする見方がある
織田信長が本能寺の変で横死すると、利休らの依頼を受けて百ヶ日法要を行い、羽柴秀吉が信長の葬儀を行った際にも導師を務めた。石田三成との衝突がきっかけで秀吉の勘気に触れ九州博多に配流となった。千利休の援助により京へ戻り、天正19年(1591年)、豊臣秀長の葬儀の導師を務めるが、この年に発生した利休の切腹事件に絡んで、事件の発端となった利休の木像が大徳寺山門にまつられていた事件の責任をとらされた。その際、いたく立腹した秀吉が大徳寺の破却を試みるが、古渓が使者の前に立ちはだかり短刀で命を絶とうとしたため、秀吉は慌てて使者を引き上げさせたと言われている。晩年は洛北の市原にある常楽院に隠遁した。

虚堂智愚(1185-1269)きどうちぐ は、中国・南宋時代に活躍した禅僧。諸寺の住持を歴任し、晩年は径山万寿寺(きんざんばんじゅじ)の第40世住持となった臨済宗松源派の高僧であり、多くの日本僧も、そのもとに参じた。法語(破れ虚堂)国宝は、虚堂80歳前後のころ、「日本照禅者(にほんのしょうぜんじゃ)」に書き与えた法語で、「日本照禅者」は、鎌倉・浄智寺の僧、無象静照(むしょうじょうしょう)と考えられている。無象は1262年に虚堂智愚を訪ね、1265年帰国、のち京都・仏心寺の開山となった。
また虚堂の印可を受けて帰国した南浦紹明(なんぽじょうみょう)は京都の大徳寺、妙心寺両派の禅の直系の祖となり、大徳寺はとくに茶の湯と関わりが深かったため、虚堂の書は茶家に珍重された。
 堺の富商で茶人の武野紹鷗(たけのじょうおう)の愛玩を経て、京都の豪商大文字屋が得たが、寛永14年(1637)、使用人が蔵に立てこもってこれを切り裂き、自害するという事件が起こった。以来「破れ虚堂(やぶれきどう)」と別称されている。茶人として知られる松江藩主、松平不昧(まつだいらふまい)が入手し、永く雲州松平家に伝えられた。

武野紹鴎
武野 紹鴎(たけの じょうおう、文亀2年(1502年) - 弘治元年閏10月29日(1555年12月12日))は、戦国時代の堺の豪商(武具商あるいは皮革商)、茶人。正しくは紹鷗だが、一部の日本語環境では表示できないため、本項では「武野紹鴎」と表記する。
紹鴎の茶湯は、千利休、津田宗及、今井宗久に影響を与え、彼らによって継承された[1]。特に利休は「術は紹鴎、道は珠光より」と説いており、これによって紹鴎の名声が広く知られることとなった[1]。
村田珠光
村田 珠光(むらた じゅこう、応永29年(1422年)または30年(1423年) - 文亀2年5月15日(1502年6月19日)または7月18日(8月20日))は、室町時代中期の茶人、僧。「わび茶」の創始者と目されている人物。なお僧であったため、本来ならば苗字は記されないが、慣習的に「村田珠光」という呼び方が広まっている[1]。
能阿弥により整備された会所の茶から能や連歌の影響を受け一休宗純との関わりから禅を学び、能や連歌の精神的な深みと茶禅一味の精神を追求し、わび茶の精神をつくった[2]。その端は将軍家や有力大名たちが金に物を言わせて集める高級輸入品の唐物道具、それらを飾り付ける室礼の方法など当時隆盛していた会所の茶のスタイルとは対抗しなかったことによるものであろう。珠光の作り出した茶室は縮小された4畳半で、書院風の宝形造。床は一間。会所では主に飾りと点て出しのために使われていた台子を点茶用の棚として客前に登場させた(南方録)。


板部岡江雪斎
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、外交僧。後北条氏、豊臣氏、徳川氏の家臣[1]。執権北条氏(北条時行)の子孫とされる。
小田原北条氏に身を寄せていた茶人の山上宗二と親交を持ち、後に自著の秘伝『山上宗二記』を贈られている

山上宗二 やまのうえ そうじ
天文13年(1544年) - 天正18年4月11日(1590年5月19日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての堺の豪商(町衆)、茶人。なお忌日は2月27日(新暦になおすと4月1日)という説もある。屋号は薩摩、号は瓢庵。本姓は石川氏。子は山上道七。
天正18年(1590年)の秀吉の小田原征伐の際には、利休を介して秀吉との面会が叶い、秀吉が再登用しようとしたが、仕えていた北条幻庵に義理立てしたため秀吉の怒りを買い、耳と鼻を削がれた上で打ち首にされた。享年46。箱根湯本の早雲寺に追善碑がある。
古田織部、古田重然
千利休が大成させた茶道を継承しつつ大胆かつ自由な気風を好み、茶器製作・建築・庭園作庭などにわたって「織部好み」と呼ばれる一大流行を安土桃山時代にもたらした。

織田長益
安土桃山時代から江戸時代初期の大名・茶人。長益系織田家嫡流初代。
織田信秀の十一男で、有楽斎如庵(うらくさいじょあん、有樂齋如庵)と号し、後世では有楽、有楽斎と称される。 有楽町、数寄屋橋などは織田有楽からきているのか。

細川忠興
また父・幽斎と同じく、教養人・茶人(細川三斎(さんさい))としても有名。正室は明智光秀の娘・玉子(通称細川ガラシャ)。

豊臣秀長(この小説には出てこない。当然茶とは関係なかったからだろう)ただ利休を語るには重要な人物だった。
秀吉は秀長を隣に配して重用し、また秀長も秀吉に異を唱え制御できる人物であった。短期間で成長を遂げ、徳川家康や伊達政宗など外様大名を多く抱える豊臣政権における調整役であり、政権の安定には欠かせぬ貴重な人物だった
秀長は温厚で、真面目、寛容な人物であり、豊臣秀吉の名補佐役であった。また、諸大名は秀長に依頼をして秀吉にとりなしを頼み、秀長は良きブレーキ役でもあったが、その彼が死去すると1か月後には千利休が切腹、さらに朝鮮出兵を始めて諸大名を疲弊させた。もし寿命が長ければ、よく国家を安泰させ、豊臣の天下を永く継続させることがあるいはできたかもしれないとされる。